整体の道についたきっかけ⑤

試合では当てると反則ですが、組手でも寸止めするのが礼儀です。
しかし、みな若いですから意地悪く当ててくる人もいます。いわゆるいじめです。
そんな時は組打ちを仕掛けて、転がします。倒れる瞬間に締めにかかります。相手は「ぎょっ」として、次からは舐めて当ててこなくなります。他校でもあいつはヤバイとなるともう大丈夫です。青春は戦いです。

柔術には「殺法」と「活法」があり、接骨術や整体は活法だと教わりました。
もともと江戸時代から明治維新にかけて按摩や針灸は町民の仕事で、整骨や整体業は武士(浪人)とすみ分けになっていました。ドラマにもあるように、お城勤めができない武士たちは、寺子屋や笠はりそれに骨接ぎや整体を生業(なりわい)にしていたのでしょう。
明治時代になっても、時代に取り残された武士達は、柔術の町道場や整体屋を営んでいました。講道館柔道の創始者 加納治五郎は柔術を習おうと東京の下町の整骨屋を探します。
そのあと、柔術界も混乱を極めますが、当時の警視庁が警察官の体術として日本の柔術の各流派を競わせます。そして勝ち残ったのが、講道館柔術です。これが後の講道館柔道です。
権力の後ろ盾を得た講道館は、柔道整復師も国家資格を得ます。
その時の試合の話は小説「姿三四郎」です。そのモデルは講道館四天王と呼ばれた、西郷史郎です。彼は大東流の伝承者、元会津藩の家老西郷頼母の養子です。NHKの大河ドラマ「八重の桜」で西田敏行が西郷頼母の役でした。
ですから、私の整体技術は大東流の流れを汲んでいるということになります。